吃音者よ吃音と戦うな!
吃音マジック
吃音は苦しいですから吃音が苦しみを与えていると考えがちですが,逆に不安や苦しみが先にあって吃音はそれを訴える手段だとも考えられます.
この考え方は結構当たっている可能性もあります。「吃音によって苦しんでいる」と思っているのに、何か別の苦しみや問題点がさきにあって,その結果として吃音がある.だから吃音を治したいと思って努力すればするほど原因が陰に隠れ,吃音は治らないということになります.
吃音を,「苦しい,苦しいという心の叫び,心の苦しさを訴える信号」と考えると,信号だけを取り除くと心の苦しみだけが残って出口を無くし,いずれ心が爆発してしまいます.だから,吃音を取り除かない工夫が随所に張り巡らされているとも考えることもできます.吃音を治そうとすればするほど治さない仕組み,場合によっては,治そうとすると吃音を強化する仕組みが組み込まれています.
これをここでは「吃音マジック」と呼ぶことにします。
吃音を治すためには,信号ではなく原因を取り除かなければならないのです.
吃音マジックが本当だとすると,吃音は我々の頼りになる味方です.そうすると,吃音を治そうとすることは,味方と戦うことになります.味方と戦って傷ついたらその味方に救いを求めます.味方と戦って勝利したら,最終的には自分の敗北がまっています.こういう関係がある限り,吃音に勝利するわけにはいきません.吃音と戦って吃音に負けなくてはならないのです.吃音治療に膨大なエネルギーをつぎ込んで,そのエネルギーが効果を及ぼさないようにしなければならないのです.
そうならないためには,「吃音者よ吃音と戦うな」でなくてはならないのです.
いや,「吃音者よ,吃音と戦え,しかし,吃音と戦ってはいけない」なのでしょう.最初の”吃音”は吃音の原因のことで,後の”吃音”は言葉の”つまり”の意味で.原因をなくして吃音のつけいる隙をなくさなければならないのです.
もう一つの吃音マジックがあります.本読みの順番がまわってきそうになりますと,吃るのが心配で不安ですから何回も何回も練習します.練習すれば吃らないと信じているからです.もし,吃音が練習不足や舌の回転が悪いのが原因ならばこれで治ります.でも,実際にはそうならないことは吃音者は体験して一番よく知っていることだと思います.
なぜなのか?
これは言いにくい言葉を探して,「この単語は言いにくい,吃るかもしれない,吃るかもしれない,....」と頭にインプットしていることでもあります.ですから本読みなどでその言葉の周辺に来ただけで,吃る言葉がわかってしまうのです.「吃るかもしれない単語に近づいている,吃るかもしれない」,「吃るかもしれない」...「吃ったらどうしよう」「はずかしい」,「吃ったらどうしよう」,.......もちろん結果は「吃って」悲惨です.こうなると吃らないためにやっていることが,吃るために一生懸命努力していることになります.こういう場合が結構多いのです.これも都合の良いことに??,「吃音治療に膨大なエネルギーを使いながら効果を及ぼさない,というよりも吃音を強化している」という吃音マジックにのってしまっているのです.
中にはテレビを見ながら「あの言葉は言えない,あれもダメ,あれも...」と思いながら吃音強化?をねらっている人もいます.また,人がしゃべっているのを聞きながら「あの言葉は言えない,あれもダメ,あれも...,俺はダメだ」と繰り返し繰り返し吃るためのイメージトレーニングをしている人がいます.
すばらしい吃音マジック!!
だいたい本読みで吃るのは「みんなの前での本読み」です.「一人だけでは本読み」は吃りません.だから以下の方程式が成り立ちます.
吃音の原因 = 「みんなの前での本読み」 − 「一人だけでの本読み」
= 「みんなの前」
吃音の原因は「みんなの前」なのです.それが「一人だけでの本読み練習」で吃らなくなるのでしょうか?「みんなの前」での練習が必要なのに「一人だけ」での練習をしているのです.朗読ができるのに朗読の練習をしているのです.
すなわち,吃音者は「本読み」では吃らないのです.「みんなの前」で吃るのです.だから練習すべきは「みんなの前」です.原則として朗読練習では吃りは治らないのです.
このことは吃音全般についても言えます.言葉が出なくなるのは,みんなの前なのです.周囲に人がいなければ吃る言葉なんて無いのです.だから吃音は言葉がでないという現象として出ますが,言葉の問題ではなく,周囲の人の感じ方の問題なのです.人見知りの一種で(実際には2歳の時のトラウマがある),その結果として言葉が出なくなった,と考えても大きな間違いではないでしょう.
吃音は言葉に関係ないですから,言葉に関する練習や訓練,すなわち,朗読練習,発声練習,腹式呼吸法などは,吃音とは何の関係もないと考えるべきです.
(注意,まとめの注2))
超,超極端な意見かもしれませんし,また厳しい見方かもしれませんが,「吃音にいつまでも苦しんでいたい」,「吃音を治すために一生を過ごしたい」という心が無意識の中にあるのかも知れません.一日中吃音のことを考えていれば他のことを考える必要が無くなります.他のことを考えることに耐えられない心を,他の心配や不安や恐怖に耐えられない心を,自分でみたくない自分(弱い自分,不甲斐ない自分,...)をみることを,吃音でマスクしているのかも知れません.吃音は苦しいですがそれさえ耐えれば心の安定が得られるからです.
言葉をマスタしてから生まれるなんてできません
留学するときを考えるとこのことはよくわかると思います.米国に留学するとします.英語が必要です.英語がぺらぺらになってから留学すべきだと考える(この論理がいわゆる堅い職業の方の職業上の基本論理です.そして,吃音者の親はこの堅い職業に就いている方が多いのです)といつまでも留学できません.ぺらぺらになることなど不可能に近いのにそれを日本で成し遂げようと言うのですから,むちゃくちゃなことを考えているわけです.適当に英語の勉強をしたら留学すべきなのです.英語は単なる手段にしかすぎません.留学してから勉強した方がよほど効率的に英語をマスタできます.かのジョン万次郎だって最初は一言もしゃべれなかったはずですが,立派に米国の大学を卒業しています.
我々は誰でも言葉が話せないのに生まれてきているのです.「話せるようになってから生まれよう」などと考えると,生まれることができないでしょう.
だから吃音があっても,治し方の基本的な考え方が身についたら,自分の目標に向かって人生を積極的に生きるべきなのです.この積極的な人生の生き方が吃音をなくしていくのです.そしてそれを通して人類に貢献するとともに,その生き様を通して次に続く吃音者がすこしでも減るように努力すべきなのです.特に自分の子供に伝えることをやめるべきです.
(子供の吃「世代連鎖」を参照してください).
「特に吃音を治してから何かをしよう」なんて考えて,吃音マジックを楽しむのはやめましょう.
「吃音を治す」といいましたが,「吃音は治すものではなく治るものなのです」
.治るための万全の準備をして「治るのを待つ」ものなのです(人生を積極的に生きれば自然と吃音は無くなっていきます).
「吃音は治らない」病気なのでしょうか?
治った人がいますから「吃音は治らない病気」というのは正しくありません.吃音は治らない病気ではありません.
では「全員治るのか」といわれますと,そうも言えません.これまでは一生治らなかった人が結構多いからです.現状では,「吃音は治る病気だけど治らない人も多く,年とともに軽くなって行くケースが多い」,これが正確な言い方かもしれません.治らない人が多いのは吃音の本質が理解できていなかったせいかもしれません.
しかしながら近年,吃音は治る病気であることが明らかになってきました.「HK吃音理論」をお読みください.
後ほど述べますが,吃音治療は,「自分の内面を,自分で気がつかないように自分でコントロールする」ということをしなくてはなりませんので,自分だけで治すのが難しいことは確かです.でも,基本的に治すのは自分なのです.
治らなかった人がいても不思議ではありません.”その確率を少しでも減らしたい”というのがこのサイトの大きな目的です.そして「吃音は治る病気で多くの人が治る」となったとき,このホームページが役割を終えるときです.早くそうなることを願っています.すなわち,このホームページは自らをつぶすためのホームページなのです.
確かに,「吃音は治る」と思っていつまでも治らない状態でいるよりは,「治らない」とおもってしまうほうがすっきりします.精神的に非常に楽になります.人間にとってはこの「中途半端な状態でいる」ことほど厳しい状態はないのです.宙ぶらりんの状態でどちらにも決まらないで延々といくことは人間の魂をまいらせてしまいます.どちらかに決まったとき気持ち良さを味わえるのです.その気持ち良さが国家や家庭や個人の滅亡など導いたことは枚挙にいとまがありません.だから「吃音は治らない」とおもって気持ちよさを味わうのは大きな問題なのです.それに「吃音マジック」もひかえています.
どうせ気持ちよくなるのなら「吃音はいずれ治る」と信じてしまって気持ちよくなりましょう.それの方が生産的です.
しかし決して「治さなくてはならない」とは考えないでください.「治らないのは努力が足りないからだ」とも考えないでください.こう思うことは「吃音にとらわれる」が故に,逆に吃音を重くします.
”人事をつくして天命を待つ”
”治らぬなら治るまでまとうホトトギス”
の心境が大切です.
「吃音は治らない」は,ここで言う吃音を心の苦しみ信号と解釈すれば,「吃音を治そうとしても吃音は治らない」は,「信号だけを取り除こうとしても取り除けない,取り除いては行けない」と言うことを意味しているので,「吃音は治らない」ということは間違ってはいないのですが.
またもや「吃音マジック」がでてきてしまいました.
単純思考はやめましょう
「吃音を認めること」そく「吃音は治らない」と結びつけたり,「吃音は治ると考えること」そく「吃音を認めないことである」としたり,「吃音を治さないと人生はじまらない」と考えたりする"単純思考"をやめましょう.吃音者は今吃っています.認めるも認めないもありません.認めて仲良くつきあって行かざるを得ないのです.治るまでは.
足を折ったのに「折ってない」といって,歩き回る必要がどこにあるのでしょうか?折った足は治らないと思いこむ必要がどこにあるのでしょうか.折ったことを認めるも認めないもありません.折っているのですから.そういうことを考慮した上で人生を生きる.もちろんそれとともに治療を行うのは当然のことです.
単純思考をやめて客観性をもとめ,心豊かに人生を過ごすことこそ,特に吃音者には必要なのです.
吃音が治るとは?
「吃音が治るということはどういうことか」?.これが吃音を治すうえで大きな参
考になると思いますのでを最初に書いておきます.
「吃音が治るとは」,当然どもらずに話すことができるようになることですが,こ
れでは吃音者にはなんの参考にもなりません.「吃音が治るとは」,話すとき
にどもることを全く意識しなくなることです.何か話したいと思ったら言葉が出てい
る,あの単語は言いにくいとか,言えないのではないかとか,連発するのではないかとか,
このようなことをいっさい考えなくなることです.このような不安や恐怖(予期不安)を感じなくなることです.
実際吃っているかどうかには直接関係ありません.だから予期不安を感じなくなったとき吃っていても吃音は治っているのです.
このような状態になったときには,ほとんどどもることがなくなっています.何も考えなくなって吃音がきえてしまっているのです.非吃音者の状況そのものです.
”吃音が治る”の定義
もう少し正確に”吃音が治る”の定義をしておきます.
吃音が治るとは,非吃音者と同じになることです.
もう少し詳しく説明しますと,それは,吃るとか吃らないとかに直接関係ありません.すらすら話せるかどうかにも関係ありません.非吃音者でもすらすら話せる人もいますしいない人もおります.たまに連発する人もおります.ですから,
吃音が治るとは,実際吃っているかどうかに関わらず,話すことに関して「話せる」とか「話せない」とか,「話せないのではないか」とかいうことを考えなくなることです.
たとえば明日,人の前で何か話さなければならないことがあるとします.このときうまくいくかどうかということは誰でも考えます.心配もします.話す前には緊張したり,話すときにはあがったりします.胸もどきどきします.誰でもそうなるのが普通です.
吃音者はこのような時,上記以外に発語できるかどうかを気にします.一人で発表練習をしているときは,周りには誰もおりませんから,吃ってもはずかしくありません(この状態では当然ほとんどの吃音者は吃らない)ので,発語できるかどうかは当然問題になりません.が,人前で話す本番のときに発語できるかどうかを(練習中にも)心配します.心配がこうじて恐怖や不安を感じたりします.吃ったら恥ずかしいからです.
発語できない言葉があるかどうかを調べ,あったら置き換える言葉をさがしたりします.置き換えることができなかったら何度も練習します(これは吃る言葉をさがして準備して意識することですから,本人の目的とは逆に,結果的に吃ろうとしていることになっています).こうして心の中で,ごく普通の場所である発表の場所を恐怖の場所に変えてしまいます.作り上げた恐怖の場所での本読みは当然吃音を発生させます.
結局心配や不安や恐怖が吃音を強化させているのです.これが吃音の根本的な原因かも知れません.
このような発語できるかどうかを本番以前(発語直前も含む)に心配することを,ここでは”発語予期不安”と呼ぶことにします.
吃音が治るとは,発語予期不安を感じなくなることです.このような意識が消えてしまっていることです.(注)
その結果として吃ることはほとんど(たぶん完全に近く)なくなっているのです.予期不安を感じなくなると言うことは,言葉を発するとき言葉に関して無意識になるということです.すなわち,歩こうと思ったとき足が勝手にでているように,話そうと思ったとき言葉が自然に出ているということです.これは吃音を「忘れた」ことと同じです.
「忘れる」というのは超難しいことなのです.「忘れる」ということは,「恐怖や不安を感じない」,「自信を持つ」と同じ意味でもあります.ここでの忘れるは「漢字を忘れた」や「名前を忘れた」の「忘れた」ではありません.「昔やったスポーツをすっかり忘れた体が動かない」「20年ぶりに故郷に戻ったら,すっかり忘れていた久しぶりに昔のフィーリングを思い出した」といった意味での「忘れた」のようなものに近いかもしれません.(「吃音の記憶を消し去ること」参照してください).
(詳しいことは,「良くある質問」の”どうして発語予期不安を感じなくなると吃音がなおったことになるの?”を参照して下さい)
(注)
この定義は1998年ごろされたもので,予期不安を感じている吃音者の「吃音は治る」の定義です.大人になった吃音者の多くは予期不安を感じていますから大人用の定義といってもよいかもしれません.吃っててもそれさえ感じてない吃音者もいますので,この場合には適応できません.
また,吃りはじめの第一声を発する人には適用できません.吃ったこともない人に予期不安があるはずがありませんから.また,吃っている幼児が予期不安を感じているかどうかは正確にはわかりませんが,恐らく感じてないと思われますのでその場合にも適用できません.
16年後の今では,「言葉を出しても大丈夫だ」と,無意識層が納得した時が「吃音が治った」と定義する方がベターだと思います.これだと幼児にも適用できます.ただし,実用的には,「無意識層が納得した」ってどのようにして知るの,という問題はありますが.
この定義には「予期不安を感じなくなった時」が含まれますので,上の1990年の定義と矛盾することはありません.なぜ「無意識層が納得した時」なのかということは,このHPの他の部分を参照なさるか,著書「吃音は治って行く」をご参照ください.
このコーナをより充実したものにするために,体験談,意見何でも結構ですからお寄せ下さい.慎重に考えさせていただいた上で本コーナに反映させていただきます.また,掲示板,チャットルーム,相談コーナも設けました.積極的にご利用下さい.ただ,返事が遅くなった場合はご容赦下さい.
(メールアドレス:ya ma4ta@nifty.ne.jp
吃音が治った状態とはつきまくっている状態に似ている
人生には何らかの場面でやることなすこと次から次ぎえとうまくいく場合があります.
どうしてだかわからないのに,何も特別なことをしてないのになぜかうまく行く.
それに対して,やることなすこと全くうまく行かなくて沈み込んでしまうときがあります.
うまく行かない原因を考えていろいろ試みてみますが,ますますうまく行かない場合です.
前者は「つきまくっている状態」で,後者は,「ついてない状態」です.
ついているときには,周囲に騒音があろうか,少々寒かろうが,人が見てようが全然気になりません.というより,まるで感じないでしょう.ついていないときには,すべてのことが気になっていらいらしてしまうことも多いでしょう.でも周囲が変わっているわけではありません.自分の状態が変わっているわけです.
吃音であることは,言葉に関してこの「ついてない状態」にいることで,治った状態とは言葉に関
して「つきまくっている状態」にいることと考えられます.つきまくっているときは何も考えずに,時間の立つのも忘れて無我夢中になってそれをやっています.1時間,2時間があっというまに過ぎています.「何も考えずに時間のたつのも忘れて話している状態」,それが吃音でない状態なのです.
また,ついているいないに関わらず何かに夢中になっているとき,忙しくててんてこ舞いしているとき,自分のことを考える余裕がない緊急事態のときも同じ状態になります.不思議なことにこういう状態ではどもっていないのです.
このような状態に自分をどのようにしてもっていけばよいのか,それが吃音の治し方の基本なのです.
吃音とは歩くとき足の出し方を意識するようなもの
この状態は,我々が歩くとき,横断歩道をわたろうと思ったら,自然に足が動いて
歩いているのに似ています.すなわち,吃音の状態とは,横断歩道をわたろうとして
いるとき,右足を出すとき左手を引いて,左足を出すとき右手をひいて等と考えなが
ら歩いているのと似ているところがあります.このようなことをしだすと,おそらく
歩き方がぎこちなくなったり歩けなくなるでしょう.そしてそれを誰かに見られ笑われたら,次からもっと気にするようになりますますおかしくなるでしょう.歩くことそのことに恐怖を感じるようになかもしれません.だから,吃音が治ったとは,足
や手をどのように動かすか考えずに歩いている状態と同じだと考えられます.
吃音とはスキーで転ぶようなもの
スキーをやった人ならわかると思いますが,この斜面は曲がれないなと思った瞬間
転びますし,ここは曲がれると思ったときはうまく曲がれます.(「思った」と言うよりも「そういう感じになったとき」,「そういう気分になったとき」という表現の方がよいかも知れません.)
「曲がれないんじゃ
ないか」「曲がれないんじゃないか」と思っている状態が吃音者なのです.だから本
来曲がれる斜面でも転んでいます.ころんだものですから次からますます「曲がれないんじゃないか」と考えるようになり,ますます転ぶようになり自信をなくし,ついにはいつも曲がれなくなってしまいます.
すなわち,どもらなくてもすむ場面でも「どもるんじゃないかな」と思ってしまうのでどもっているのです.いいかえれば,自分で自分にマインドコントロールをかけてしまっているのです.このような状態になった時,うまく曲がれるようになるにはどうすればよいのでしょうか.「曲がれないのではないか」と考えないようにすればよいのでしょうか?.考えないようにすることも必要ですし,逆に「曲がれるんだ」と思ってしまうことも必要ですが,それで曲がれるようになるのでしょうか? 考えないようにすることで,考えないでいられるでしょうか?
スキーがうまくなるためには?
それではどうすればよいのでしょうか?それは,スキー学校にはいることと,その
後の練習と経験と自己研鑽を行うことによる技術の向上と恐怖心の克服,また,それ
と同時に何回も滑ることによって滑ることになれるとともに自信をもつことです.
その結果,スキーがうまくなったとしますと,そのときは,「曲がれないのではない
か」「曲がれるな」などと考えることなく,「あそこを右へ行って次に左へ行って」
と思うだけですいすい滑れているでしょう.いつも曲がれる気分になっていて,
その気分さえ当たり前になっているので,曲がれる気分さえ感じなくなっているでしょう.
「曲がれないとは考えない」,「曲がれるとも考えない」.「何も考えないのに曲がりたいところで曲がっている」.このような状態が,吃音が治った状態なのです.このような状態に自分をどのようにして持っていくのか?それが吃音の治し方なのです.一朝一夕にスキーがうまくならないよう
に,吃音も,病院へ行って薬をもらって飲んだらすぐ良くなるような病気ではなさそうです.しかも,スキーは自分の心と技と自然との闘いだけですが,吃音はこれに社会
や周囲の人が大きく関係した中での複雑な闘いなのです.しかもスキーと違って,技術より
も心理面が大きく影響するという性質を持っているようです.だから,治癒が難しいと考えられます.
どうすれば治るのでしょうか?
「吃音を治すには発声練習や呼吸法をやったほうがよい」と言う人もおりますし,
「吃音を治そうとしないで吃音を受け入れ,その上で社会生活をおこなった方がよ
い」という人もおります.また,「話すとき,どもることを意識しない方がよい」と
言う人もおります.どれも間違いではありませんし良い方法であることは確かです.
吃音を治そうとしないのも吃音を治す方法の一つですし,話すとき意識しなでおこう
と努力するのも吃音を治す良い方法です.治す方法が見つかって希望に燃えているとき,
これもすばらしい状況です(たとえ,結果的にその方法そのものが効果がない方法であっても).
しかし,治そうとしないでおこうとしても
治したいですし,意識しないほうが良いとわかっていても意識してしまうのが吃音者
の常であると思います.そんなことができる人なら吃音者になっていないのではないでしょうか.
希望に燃えながら一方で疑っている.吃音者は賢すぎるところをもっています.
専用の器具を進める人もおります
が,専用の器具を使ってもスキーがうまくならないように,これにはあまり期待しな
いほうが良さそうです.ただ,高価なスキーですべったらたまに気持ちよく滑れて,気分が良くなって練習に精を出し,すっかり自信をつけてうまくなるということもなきにしもあらずですが.また,高価なスキーでもうまく滑れないことがわかって,滑れないのは腕のせいであることがはっきりすると言う効果もありますが.
吃音者にとっていいことにしろ悪いことにしろ「体験すること」は非常に大切です.しかし,あまり高い「授業料」を払うのも考えものです.
専門の病院があることをあまり聞きませんし,専門家もそう多くなさそうです.
「吃音の経験がない専門家に吃音のことがわかるのかな?」というちょっとばかりの懐疑心もあります.
吃音について相談する人をえるのもなかなかできることではないようですし,そ
うかといって,他人が何らかんだいってくると,お節介をやかれているようで余りよ
い気持ちもしません.専門家からアドバイスを受けることができるとしても,また,
仲間に相談できるとしても,結局は吃音については自分が中心となって,自分のこと
は自分でやるよりほかなさそうです.そんなとき本文が何らかの参考になれば幸いで
す.
最後に
本ホームページは,吃音者の状況が昔のままほとんど改善されていないのに憤りを感じて始めたものです.それゆえ,本ホームページは他の吃音サイトとしては少しスタンスが違っております.まず,自分の頭で考えることが重要だと思って過去の研究成果をあえて参照せずに,ChiNe研の研究成果をもとにHeroが洞察してまとめています.もし過去の研究成果が効果的ならばもっと吃音者の状況が変わっていると思ったからです.
その副次効果として,用語が一般的なものになっていますし,優しくわかりやすく,またまとまりもよくなっていると思っています.逆に悪いところもあるのは確かですが.
その後過去の研究者の研究成果にふれる機会に恵まれることがありますが,その多くはこのホームページの内容で包括的にうまく説明できるようです.スタンスはオリジナルですし内容もオリジナルですが,そういう意味で荒唐無稽なものとはなっていないようです.(注1)
特に「幼児の吃Q&A」は吃音の原因のかなり重要な面を明らかにしています.
良質の情報があればどんどん取り入れようと思っておりますので,そのような情報をお持ちの方是非お送りください.
本文ではわかりやすくするために,いろいろなことをかなり割り切って書いています.真実とか事実の提示(実はまだ誰もできないのです)ということではなく,現段階でこうすればよいと思われることについてまとめています.ある意味で独断と偏見に満ちた意見かも知れませんが,吃音治療が大成功を納めているとは言い難い現状では,これも一つの方法であると思います.こようなことをご承知の上でご自身の責任で,すなわち,取り入れるべきこと,取り入れてはいけないこと,を判断しながらご利用下されば幸いです.
とはいうものの,多くの吃音の方に接するにつれて,ここに書いてあることはおそらく90%以上(もしかしたら99%以上)正解に近いのではないかと考えるようになっています.残念ながらそれが正解かどうかはChiNe研でも証明できません.脳に関係する事項のようだからです.だから世界中の誰も証明できていないのが現状です.しかしながらこのサイトを注意深く読まれれば,正解であることを確信されるはずです.
このサイトを参考にしてぜひ吃音を治す自分なりのヒントを見つけて下さい.
才能に恵まれたみなさまの前にはすばらしい将来が待ち受けているのですから.
それでは皆様が社会で活溌に活躍され,次に続く吃音者がすこしでも減ることを祈っています.
Hero(ひろ)
(注1)
「吃音が発生する脳の仕組み」に関しても研究がすすめられているようですが,一般に「言いたい」とおもったらそれがどのような仕組みで脳で処理され最終的にどのような仕組みで言葉として発声されるかという脳のメカニズムは,まだほとんど明らかにされていないようです.また,精神状態や感情と言葉の関係はほとんど解明されていないようです.このメカニズムが解明されないとおそらく吃音にたいする正確な議論は難しいと思われます.それにはまだまだ多くの年月を待たなくならないようですので,本サイトでは意図的に「脳のしくみ」に言及することを避けています.